ホロウ!
プールイベントがあまりにタルく、桜との水中でのやりとりはシチュエーション的に無理があるとすら思った。
僕が基本的に自分のことを暖かい人間だとは思っていないからかもしれませんが、どうにも、なんというか、奈須さんの理屈には納得いきかねることがあります。
士郎がただひたすらに『過去を変えてまであの地獄をなかったことにするなどということはあってはならない』といった意味のことを言っていたときとか、バーサーカーvsアヴェンジャーのときにバゼットが『彼を置き去りにすることだけはしてはならないことだったのに』というときとか。
個人の感傷と大局的なものの見方というものは全然違っていて、例えば何処かの国のボスが戦争を決意したとき『自分の子供を戦争に送りこむ覚悟がないのなら戦争などすべきではない』という世論の反対、あるいは映画監督あたりから取材の申し込みやデータの提供などがあったとする。それは要するに個人的な感傷で大局的な利益のようなものを放棄しろという意味合いであって、いわば『それはそれ、これはこれ』で括れる内容のものなので、それら2つの要素が相反しようとそれは戦争をやめる理由にはまったくならない、と思うわけです。いや、戦争をやるかやらないか、どちらが正しいかとかそういった内容の話ではなく、飽く迄も『それは反対する理由にならない』と思うだけなのですけども。私的な感情を政治に持ち込むのはアホのやることであると考えているってことです、極個人的な意見として。
で、士郎とバゼットは、というか恐らく奈須さんはそのあたりが僕と考え方が決定的に違っていて、どちらが正解だとかそういった内容の選択ではない、ということは僕も理解しているのだけど、結論に至るまでの論理がまったく理解できないので、どうしてもそこで冷めてしまうのは免れぬというか、感情移入していたとしても一気に冷静になってしまう瞬間みたいな、そういった感覚に陥る。この手のゲームだとそれが一番辛い。
そして、ウォシュレットの開発者を知人とする親父を持つ人間としては、たとえ冗談だとかギャグだとしても、ウォシュレットをキチガイ紙一重の発想だなどと言われるのは気分がよいものではないと思った。
…というか、たったの七合しか炊いてないのに大食漢3人を含んだ6人の弁当まで捻出できるのか。おかずが多いのかな。毎食一升炊いていた我が青春時代は男三人兄弟で八合を、残り二割を親が喰って、弁当は別に炊いてもっていった挙句にパンまで買っていたものだが。朝七合炊いて、夕食前に七合炊いて…ならあるいはいけるかもしれんが、その路線かな。